指 最終

『指』

        最終    

このお店に来て二年が過ぎた頃、私はこのお店をすっかり任されていた。最初は接客なんてとんでもないと断っていたが、彼になじみの客を紹介してもらっているうちに、少しずつできるようになっていった。そして彼の勧めで思い切って指を覆う長い袖の服をやめ、全てを出してみたことが私を変えた。最初は驚きもされたが、それも少しの間だけで、こんなに気持ちが軽くなり毎日が楽しくなるなら、もっと早くからこうするべきだった。なんて勝手なこと思ってみたりもして。

そんなある日、近くのイベント会場でひとり一点持ち込みで参加する作品展の話が舞い込んだ。できるだけ多くの方に作品を見てもらうには、絶好のチャンスだ。彼も私も二つ返事で飛びついた。出展作品は彼と私が初めて出合った日に作っていたあの『女神』。

三日間行なった作品展は大反響で、連日とてもにぎわっていた。冷やかしに来る客もいたが、どこかのお偉いさんであろう方も数多くみえた。大金持ちのマダム、大企業の社長、有名な宝石デザイナー、テレビの向こう側でしかみたことのない著名人なんかもいた。彼らは、気に入った作品があると値段の交渉に入る。各ブースで商談を持ちかけている人の姿を見かけた。サインをしている姿も見受けられた。もちろん彼のところにも何人かやってきて、びっくりするくらいの高値を付ける人もいたが、彼はこの作品を手放すことはせず、店の住所の入った名刺を渡し、丁重に断っていた。また、彼の技を気に入ってくれた宝石会社の社長がすごい契約金を積んで話を持ちかけてきたが、それも言葉だけ受け取って断った。

たった三日間、私は彼の後ろでただ笑みを絶やさず立っていただけだったが、緊張しっぱなしで終わった時にはくたくただった。それでも、いつもになく少々興奮気味の彼を見ていると、不思議と疲れも飛んでゆく。

全ての日程を終了し、丁寧に包んだ『女神』を箱の中に入れると彼は、「ちょっと待ってて」とそれを私に手渡し、主催者らしき人のところへ挨拶に向かった。私は『女神』をかばんの中に納め、彼が帰って来るまでの時間じっと待っていた。

「ごめん、待たせちゃったね」

少し長く時間がかかったのは、このあと行なう打ち上げへの参加を断っていたから。彼は、私の事を気遣ってたくさんの方に頭を下げて回った。それは時折見えた彼の行動で理解できた。

「いいの?」と言う私の問いに、彼はただ優しく微笑み「さぁ、帰ろう」とかばんを受け取り会場を後にした。

店までおよそ三十分。二人で並んで歩いた。「すごかったね」「うん」「何でこの作品手放さなかったの?」「何でだろうなぁ」「参加してよかったね」「うん」続かない会話を楽しみながら、ゆっくりと歩いた。彼は満足げだった。顔を見ればわかる。「二人で打ち上げしよっか」道路の向かい側にある自動販売機を見て、私は冗談まじりに言った。すると彼は「いいねぇ」と言って持っていたかばんを私に預け、「買ってくる」と急いで走っていった。いつもと変わらないように見えるけれど、微妙に違う言葉と行動。「よっぽど興奮しているんだろうなぁ」彼の普段見せない部分を見た感じがして、ちょっぴり嬉しかった。そんな思いを胸に彼の背を目で追っていると、突然何かが私の握るかばんを引っ張った。

「なに?」私は咄嗟にかばんを持つ手に力を入れ振り向くと、帽子を深くかぶった男が私の―――いや彼のかばんを私から奪おうとしていた。私は無我夢中でかばんを引き戻そうとしたが、私の手でこのかばんを守るには機能的に無理があった。私の手はこのかばんのもち手を完全に掴みきることはできない。指で挟むというだけの握力とはいえない力で私は男に抵抗するしかなかった。しかし必死の抵抗も虚しく、かばんはものすごい勢いで奪い去られ、その拍子に私は前のめりに倒れた。あのかばんの中には『女神』が―――。

「ダメーッ!」

 やっとの思いで声を出した時には、男の姿はどこにもなかった。悔しさと情けなさが胸を締め付ける。右手首の激しい痛みと息苦しさに、私はそのまま意識を失った。

 夢の中で私は「女神」を追いかけ走り続けていた。苦しくて苦しくてもがきながら、それでも走っていた。

私は、彼に頬を叩かれて目が覚めた。病院だった。皆が私を正気に戻すために必死だった―――らしい。無意識に叫び暴れていたようだ。しかし、なぜ―――?

私は記憶を辿った。そして奪われたかばんと帽子をかぶった男と言い知れぬ恐怖を思い出し、震えが止まらなくなった。

「女神が!女神が!―――キャァーッ」頭の中が変になりそうだった。何とかして欲しい一心で叫び声をあげ続けた。

「大丈夫。落ち着いて」

取り乱す私をギュッと抱きしめ、彼は何度もそう言った。私は必死にその腕にしがみつき、どこかに行ってしまいそうな自分を繋ぎとめた。彼の手が私の髪を優しく撫でる。乱れた自分の呼吸が私の存在を明確にしだした。私は彼に言われるまま大きくゆっくりと呼吸し、身体力を抜いた。彼の鼓動が聞こえる。徐々に落ち着きを取り戻すと、私は彼に謝るための言葉を探し始めた。涙がとめどなく溢れ出る。

「かばん、守ってくれてありがとう」

彼は静かにそう言って微笑んだ。けど、けれど―――。私がその先のことを口にしようとすると、彼は人差し指を口に当ててそれを遮った。そして手の中からそっと『女神』を出した。

「え?」

「かばんもこの通り」

 彼は微笑みながら見せてくれた。私は驚きのあまり言葉を失っていた。

 かばんを持ち去った男は、偶然にも彼の目の前に現れたらしい。その時のもみ合いでできたアザが彼の顔に痛々しく残っている。そのことに今頃気が付いた私は、思わず声を上げて泣いた。

「どうしたの?どこか痛い?」

 彼はやはり優しかった。

診察の結果私の右手首の腱は断裂していた。それだけなら通院治療も可能だったが、精神的ダメージを心配した医師の判断で、しばらく入院することになった。とはいえ検査以外することはない。有り余る時間。そうなると、ついつい余計なことを考えたりしてしまう。ただでさえ握力のないこの手、年をとって全てが衰えだしたらどうなってしまうのだろうか?いつか、何もつかめなくなるときが来るのだろうか?そんなあるかないか分からないようなことを考えては不安になっていた。右手のリハビリが始まった時は追い打ちをかけるようだった。力が入らない―――。本当に治る?そんな思いとはうらはらに、私の右手は数日後には違和感は残るもののしっかりと動くようになった。

 そして入院から一カ月後、ようやく退院の許可が下りた。「あまりストレスをかけないように」と医師に忠告され診察室を出た。するとそこに彼が立っていた。私は嬉しくて彼に飛びついた。

「お帰り」

彼の耳元でのささやきに、「ただいま」と思わず彼の唇にちょんとキスをしていた。ここは病院だった。

 そして私のケガもすっかり治り以前のような生活が始まった。少し違うところといえば、店に訪れる人の数が増えたところかな。作品展の影響らしい。

 そんなある日、帰ろうとする私を彼が引きとめた。

「ちょっと―――」

 彼は店の奥から箱を持ってくると、

「やっとできたんだ」

そう言って箱のふたを開けた。そこには『女神』のネックレスと、『天使』のイヤリングが入っていた。

「ずっと僕のそばにいて欲しい」

 真顔で言った彼の言葉がとても嬉しかった。私は心のどこかでその言葉を待っていた。けれど、私は彼に背を向けた。

「ありがとう。けど―――受け取れない―――」

「なぜ?僕じゃぁダメかな?」

 私は首を横に振った。

「あなたじゃなくて、私じゃダメなの」

 私は、自分の指に目を落とした。

「こんなのは、理由にならない。ただちょっと他人と違うだけじゃないか」

私の前に回り込んだ彼はこの手を握り、瞳をそらさずにそう言った。私は泣きたくなかったから、わざと笑ってみせた。

「カップ割っちゃうよ」

「買えばいい」

「カッコウ悪いよ」 

「そんなことない」

「子どもにも遺伝するかも」

「構わない。怖ければ作らなきゃいい」

彼は真剣だった。けれど、真剣であればあるほどこわい―――。

「嬉しい。嬉しいけど、ダメなの。今はいいわ、なに不自由なく指も動く。けど、この前のケガでわかったの。いつかこの指は動かなくなる。いつか力尽きて―――もしそうなったら―――」

少し胸が苦しくなった。けれど胸の内から出る感情を抑えることはできなかった。呼吸が荒くなり、指先がジーンとしびれだす。

「僕の指をあげるから。もしそうなったら、僕の指―――いや、手をあげるから。だから何も心配しなくてもいいんだ」

 そういって私を抱きしめ、そっと髪を撫でた。苦しかった胸がスーッと楽になった。

 そして私は彼の妻になった。

 十年後。私たちは今、三人の娘にとともに楽しく暮らしている。私の指は今も健在だ。私の取り越し苦労だったのかもしれない。日夜医学は進歩している。モしこの先私の指が動かなくなったとしても彼の手をもらわずに済みそうなくらい。ただ、健康保健証の臓器提供欄には、彼の字で「両手は妻に」と書き添えられていた。

                                    終 

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指③

 『指』
     
つづき③

私には、指輪を飾る指がない。手のひらにわずかに存在するお団子のような指は、日常生活を何不自由なくこなすためだけに付いている。生まれてからずっとそうなのだから、もうそろそろ慣れても良さそうなものなのに、未だ長い袖で隠して現実から目を背けている情けない私。そんな私とおさらばしようと意を決して飛び込んだお店。「ここならもしかすると―――」なぜそう思ったのだろう。けれど、これが現実。そろそろ受け止めなきゃ。泣くのはやめよう。けれどそう思えば思うほどこぼれでる涙。

「やだ。涙止まんない―――」

必死に笑ってそう言うと、彼は一層深く私を包み込んだ。

「もっと泣いていいんだ。我慢なんかしなくていい。」

 その言葉に、時が止った気がした。私は向きを変え、彼の胸に顔をうずめて泣いた。声を上げて泣いた。いつまでもいつまでも、気の済むまで泣き続けた。

外は悲しいくらい夕陽で真っ赤に染まっていた。

 「映画や、コミックの世界ではもう何十年も前から機械の身体が出てくるのにね―――。こんな中途半端ならいっそ、手首からなかったほうが見てくれがいいのに」

すっかり日も落ち、『CLOSE』の札が掛けられた店の奥、彼の部屋の入り口に腰を下ろし、私はそう言った。散々泣いたのに、未だ枯れない涙が頬をつたって落ちる。

「辛かったね」

ふわっと漂うコーヒーの香りとともにやってきた彼が、そう言いながら私の隣に腰を下ろし、マグカップを差し出した。

「インスタントだけど」

口元を緩ませそう言った彼に微笑み返そうと必死で笑顔を作ったけど、またもこぼれでる涙に負けた。カップを受け取りながら彼の言った「辛かったね」という言葉に、ただただ頷くしかなかった。

「さぁて、もうひと仕事するかぁ」

 そう言って彼は軽く伸びをしてアトリエに姿を消していった。その彼の優しさとマグカップから伝わる温もりを、長い袖を手繰り寄せた両手に感じながら私はそっとコーヒーを口にした。

「熱っ」

 なぜだか不意に笑いがこみ上げ、しばらく泣き笑いをしていた。

 次の日、ふと目を覚まし、いつの間にか眠っていた自分がいることに気がついた。しかもちゃっかりと布団の中に潜って―――。私は飛び起き辺りを見回した。殺風景な部屋の中、とても静かな朝。鏡など見なくてもわかるくらい泣き腫らした目に後悔の念が。

「迷惑かけちゃった―――」

 急いで布団を押入れにしまい顔を洗うと、そっと部屋から出てアトリエを覗いてみた。

「いない」

 あわててお店のほうに出てみたが、そこにも彼の姿はなかった。一人取り残された気分になって立ち尽くし呆然と窓の外を見ると、ようやくそこに彼の姿を見つけた。

 私は無意識に満面の笑みを浮かべ、あわてて店の外へ出た。驚いた顔でこちらを見つめる彼に何から話していいか分からず戸惑っていると、彼は作業の手を止め「おはよう」と柔らかい笑みでそう言った。

「はっ、はい。お、おはようございます。あっ、あの、き、昨日はどうも済みませんでした」

 しどろもどろにしゃべる私の頭を彼はクシャクシャッと撫でた。

「よく眠れた?」

「はい」

「それは良かった」

軽いやり取りの後、彼は再び作業に戻った。足元にあるバケツから取り出した雑巾を固く絞り、扉の横の壁、ちょうど目の高さの部分を丁寧に拭いた。そして一枚の紙をそこに押し当て、

「あ、悪いんだけど、これ、押さえていてくれる?」

 そう言って私の方を見た。私は「はい」といいながら邪魔な袖を手繰り寄せ、真っ直ぐになるようその紙を慎重に押さえた。

―――急募 アシスタント募集―――

「あ、この紙―――」

私は無意識に呟いていた。

「求人広告。前に貼ったやつ、風に飛ばされたみたいでね。どうりで誰も来ないわけだ」

 そう言いながら、彼は適当な長さに切ったガムテープでチラシの上側を貼り始めた。

「そ、それ、私が剥がしました」

 俯き加減でボソッと白状すると、「えっ?」と聞き返すように言いながら、彼はガムテープを押さえる手を止めた。私はポケットから幾つにも折られた一枚の紙を取り出し、もたもたと開いた。当然、今、壁に貼り付けたものと同じものが顔を出す。

「ゴメン、なさい。働きたいと思ったんだけど―――言い出せなくて―――」

 泣き腫らした目から涙がこぼれ出た。行き交う人がこちらを見ながら去って行く。私が泣いたせいで彼を困らせていると思うと、より涙がこぼれでた。彼は、大きく開いていた目をいっきに細め「大丈夫だよ。ほら、せっかくの顔が台無しだ」とハンカチを差し出し、「じゃぁ、これは用無しだな」と貼りかけたチラシを剥がして手際よく道具を片付けた。

「中へ入ろう」彼の笑顔が優しく私を包み込む。私は無言で小さく頷き、彼に促されるまま店の中へと入った。

 翌日から私は、このお店で働くこととなった。働くと言っても、毎朝お店の掃除をし、お花に水をあげ、お客様が来たらアトリエにいる彼を呼びに行く。ただそれだけのことできちんとお給料がもらえる。申し訳ないくらい楽な仕事。それでも作品を作ることに専念したい彼にとっては、とても重要な仕事らしい。私は少しでも彼の役に立とうと、いつしか炊事や洗濯までやるようになっていた。

毎日が楽しくて仕方なかった。だって、彼の前ではありのままの自分でいる事ができるのだから。そんなことを思いながら、この日も夕飯の後片付けをしていた。鼻歌まじりで洗った食器を拭いていると、不注意にも彼の大切なマグカップを手から滑らせた。

「ガッシャン」その音にあわてて飛んできた彼は、私を見るなり「大丈夫?ケガはない?」と心配そうに尋ねた。私が小さく頷くと、「よかった」と肩をなでおろし、そのまま目線を下へ移した。その先には、割れたマグカップが―――。

「あーっ!僕の―――」

その後も私は二、三カ月に一度は同じ失敗を繰り返した。そのたびに彼は私のことを心配し声をかけてくれた。

そんなある日、私は二日続けて彼のマグカップを割ってしまった。私は自分の手を見つめ責めた。

「またやったか?」

 彼はニコニコしながらやってきた。

「私、人より物を包み込む能力が劣ってるんだね」

 私は手を見つめたまま心の中の思いを口に出していた。

「なんだ。今頃気付いたの?」

 彼は、あっけらかんと答えた。そして、

「確かに君は手で物を包み込む能力が低い。けれどその分、心で物を包み込む能力を持っているんだ」

割れたカップを片付けながらさらっと言った彼の言葉に、私の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ出た。それを見た彼はあわてて「どうしたの?どこか切ったの?」と私のことを心配しだした。そんな彼の姿がなんだかとてもおかしくて、私は首を横に振りながら泣き笑いしていた。

その日から私は、洗物をはじめ全てのものを持つ時は手だけでなく、心を込めて持つようになった。おかげで少しは食器を割る回数が減った気はする。ただ元々のそそっかしい性分はどうにかなるわけでもなく、まったくそそうをすることがなくなったわけではなかった。

最終章

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指②

  『指』
      
つづき②

私はこの日、日が暮れるまで店内と彼の作業を黙って見続けていた。ただ見ていただけにもかかわらず、帰り際「また来ていいですか?」と小さな声で尋ねてみると、彼は手を止め優しく微笑み、静かにうなずいた。私は嬉しくなって自然と顔がほころんだ。

 その日から毎日のように私はこの店に足を運んだ。けれど、この店を訪れた本当の理由をまだ言えずにいる。「今日こそ―――」そう心に決め店の扉を開けると、一組のカップルが仲睦ましそうにアクセサリーを見ていた。

「ねぇ、これがいい」

そう言って女性が指輪を手に取ると男性は、「よし」といって女性から指輪を受け取り、店の奥に向かって声をかけた

「すみません」

木製の机の上には、

 ―――ただいまアトリエにおります。御用の方は声をかけてください―――

の札が立てかけてあったが、何度声をかけても店の主人はいっこうに出てくる気配がない。

「少々お待ちください」見かねて声をかけると、男性は少し驚いた顔で「あ、はい」とだけ答えた。

店の奥、アトリエに入ると、思ったとおり彼は作品作りに熱が入っていて、客が来ていることなど微塵も知らないようだった。そんな彼に客が来ていることを伝えると、あわてて店へと向かった。

「すみません。お待たせしました。どうぞおかけください」そう言って二人に椅子を勧め、後から出てきた私に「ありがとう」と声をかけ接客を始めた。私は照れながら会釈をすると、邪魔にならないようにすぐそこから離れ、そしていつものように彼の作った作品をひとつひとつ食い入るように眺めた。いつ見ても何回見てもそれらはとても温かく私の心を落ち着かせる。中でも愛らしい天使の付いた指輪が私のお気に入りだった。

少しして、何気なく先ほどのカップルに目を向けると、男性が数十枚のお札を彼に渡しているのが見えた。私は、見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐに視線を元に戻した。

「すごい大金―――」そう思いながらお気に入りの指輪に目をやると、なんとなくその値段が気になり、私は値札を探してみた。けれどどこにも付いていない。改めて見てよく見ると、そこにある作品全てに値札はついていなかった。「フウッ」と軽く鼻から息を吐いた後、再びカップルに目を向けると、男性が女性の指に指輪を通していた。そのときの女性の幸せそうな顔は一生忘れられないだろう。

 帰り際、彼が二人に「お幸せに」と声をかけると、二人は声を揃え「はい」と答え寄り添って帰っていった。その後ろ姿に深々と頭を下げ、姿が見えなくなるまで店の外で見送る彼を見て私は、心が温かくなるのを感じた。

見送りを終えた彼は店の中に入ってくるなり「お茶でも飲もうか」そう言って私を手招きし、奥へと入っていった。

 アトリエの奥、一段上がって引き戸を開けると、小さな台所と押入れがあるだけの六畳ほどの畳の部屋があった。その奥にはトイレやお風呂があるのだろうか。住居というよりは、仮眠室といった感じだった。そこに入る気にはなれず、入り口で立っている私に、「インスタントだけど―――」そう言って彼は、温かいコーヒーの入ったマグカップッを差し出した。私は指先まですっぽり覆い隠す長い袖を手繰ることなくそれを受け取った。じわじわっと温かさが伝わってくる。

「こんなところでよかったら、どうぞ」

彼は敷居の上に座り私を見上げた。私は少し照れながら頷いて遠慮がちに隣に腰掛けた。猫舌の私は、しばしコーヒーの香りを楽しんだ。横目で彼を見ると、彼もまた猫舌らしく、カップに口を近づけては離し息を吹きかける、そんな動作を繰り返していた。そんな動作がかわいらしくも見え、また、滑稽にも見え―――。私は「ぷっ」と吹き出していた。

「熱すぎたね」彼は目を細めた。

「さっきはありがとう。君のおかげで助かったよ」

「いえ、私は何も―――」

深々と頭を下げる彼に私は恐縮し、マグカップの中で揺れるコーヒーに目を移した。そして、今ならここに来た理由を言える気がして、ドキドキしながら私は口を開いた。

「あっ、あのう!」私の上ずった声などまったく気にせず、彼は優しい目線をこちらに向けた。

「あ、あのっ、そのっ、あ、ああ、あそこに飾ってあるアクセサリーには値札が付いていないようでしたけど、なぜですか?」

 思わずまったく違うことを口にし、首を傾け苦笑いをしてみたが、これも聞きたいことだったので、よしとすることにした。

「僕はね、アクセサリーの価値は、作る側でなく付ける側の人が決めるものだと思っているんだ」

 優しい口調とは裏腹に、彼の目は真剣だった。

「だからね、本当に気に入ってくれた人のその価値で、値段を決めてもらってるんだ」

私はその言葉に少し圧倒されたあと「すてき」と小さく呟いた。

少しの沈黙のあと『チリーン』とお店の入り口の開く音がした。

「おっ、今日は忙しいな」そう言って彼はいつの間にか空になっていたマグカップを置き、店に出て行った。私は飲み頃になったコーヒーを一気に流し込むと、彼のカップを手に取り、畳の部屋へと足を踏み入れた。殺風景な部屋を見て、「どうやって生活してるのかしら?」と余計なことまで考えを巡らせながら、台所兼洗面所といった流しで二人分のマグカップを洗い部屋を出た。

 店に出ると三人の女子高生がキャァキャァと騒いでいた。彼は椅子に腰掛け、その様子を微笑ましく見ていた。

「ここのアクセサリーってさぁ、値段自分で決めていいんだってさぁ」

「うそぉ。じゃぁタダでもらっていってもいいってこと?」

「それじゃぁお店の意味ないじゃん」

少女たちはケラケラと笑いながら、アクセサリーを手にとっては着け、似合うだの似合わないだのしばらくの間騒いだあと、何事もなかったかのようにお店から出て行った。私は少女らの後姿に思いっきり「ベー」をしてやった。彼はというと、先ほどのカップルを見送った時と同じように「ありがとうございました」と深々と頭を下げ、そしてゆっくりと頭を上げた。その時の表情は、もとても穏やかで幸せそうだった。

「気にならないんですか?あんな風に言われて」

私は必死に気を静めそう尋ねた。彼は一瞬目を丸くしたが、すぐにまた目を細めて言った。

「彼女たちのあの幸せそうな笑顔。僕はあれだけで満足なんだ」

 私の胸の奥が「きゅん」と鳴った。

 帰り道、私はポケットから一枚の紙をとり出した。

――― 急募 アシスタント募集 ―――

 お店の外に貼ってあったチラシ。窓から覗いては心惹かれたアクセサリーの数々に、「こんなお店で働けたらな―――」と、意を決して店に足を踏み入れたというのに、未だ躊躇している。私は少しの間そのチラシを見つめ「フゥ」とため息をついた後、丁寧に折りたたんで再びそっとポケットにしまい込んだ。

あくる日、やはり私は何も言い出せずにただ作品を見つめていた。というより、ここに来ると、そんなことはどうでもよくなってしまう自分がいる。

「かわいい」そう声に出していたのかいないのかよくわからないけれど、いつの間にか私の後にいた彼がそっと私のお気に入りの『天使の指輪』を手に取った。

「そんなに気に入ってもらえると、この子もきっと喜んでいるよ。ほら見てごらん」

そう言って彼は私と横並びに立ち指輪を見せてくれた。

「ほら、表情が穏やかだろう?」

「え?指輪が?」

私は半信半疑で天使をよーく見てみた。

「ほんとだ―――」

不思議なことに最初に見たときと、明らかに表情が違って見えた。

「アクセサリーはね、その人の想いが通じるんだ。着けてみるとわかると思うよ」

彼は左手をそっと出し、私の右手を誘った。

「え、いえ、いいです」

私は咄嗟に両手を後ろに隠した。

「遠慮しなくてもいいのに」彼は残念そうに頭をうなだれた。

「ごめんなさい」そういってバツが悪くなった私は、両手を腰に当て上下に拭った。するとここぞとばかりに、それはまるで悪ガキが何かを企んだ時のような表情で、彼は私の右腕を掴んだ。「遠慮はなしだ―――」そう言って私の手をすっぽりと覆い隠した長い袖をめくり上げたその瞬間、彼の顔がにわかに曇ってくのがわかった。

「いいの。気にしなくていいんです。慣れて―――ますから―――」

 私はめくりあげられた袖をあわてておろし、思いっきり作った笑顔で平静を装った後、彼に背を向けた。すると、彼の腕が後から優しく私を包み込んだ。

「ごめん」そう言った彼の体は、かすかにに震えていた。

「気にしなくていいんです。本当に気にしなくて―――」

 私の目からこぼれた大粒の涙が、彼の手の上ではじけ散った。

『指』③

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もうひとつ、未発表の小説がありました。

共同出版の話もあったけれど、

ひとつ共同出版を世に出したところだったので、

経済的にあきらめた作品です。

(最終の推敲は行っていません)

***********************

プロローグ

 「五体不満足で良かったことってありますか?」

 私はその答えを、言葉は不適切かもしれないが、ワクワクして待った。

 それは数年前、乙武さんが車の免許を取得するまでのドキュメンタリー番組の一場面。あれだけの重度の障害を持ちながら、その境遇に負けることなく、周りから愛されている彼が、どんな答えを出すのか。

 私も、他の人にあって自分にだけないものがある。普段の生活にはさして支障はない。けれど障害を持つと、そのおかげで出来ないことが色々あるのも確かだ。ただ私は、それを障害の所為にはしたくないから他の方法でクリアさせたりする。それでも出来ない時は「ただ努力が足りないだけ」そう思うことにしている。そうでもしないと、すべてのことから簡単に逃げることができてしまうからだ。人はそれを『頑張り屋さん』と呼ぶ。普通の人ができることを、普通にするだけでそう思われる。ラッキーといえばラッキーだ。

話がそれてしまったが、それで乙武さんは何と答えたか―――。

「ん―――、いろんな人と沢山会えたことかな」

 実はこの答えには、少々がっかりした。「同じなんだ」と思えたから。確かに障害を持ちながら何かを達成し、それを取り上げられると、いろんな意味で人に会える。普通ならなかなか会えない人にだって会えてしまう。けれどそれは別に障害を待っていなくても会える可能性はあるわけで、それであれば、障害なんて持っていないほうが良いに決まっている。

私はふたつ目の質問の答えが、正直な気持ちなんだろうなと思った。

「じゃぁ、嫌だったことは?」

「沢山あるよ」

 それで、私は卑屈になっているかって?どうやらそうではないらしい。なぜだか人が驚くくらいノー天気に生きている。ズバリ、

『人生は、楽しむためにある』

である。 

 そこで私は何を血迷ったか、自分を主人公にした物語を書いてみた。そうすれば、私は女優にだってなれる。しかも主役として―――。

 こんなところにまで、ノー天気さを出してしまう私は、一体何者なんだろうか?

  『指』

 石畳の街。

レンガ造りの家。

車の来ない細い交差点。

そのかどにあるアクセサリー店。

 毎日そこを通るたび思っていた。今日こそ ―――。

「こんにちは―――」

 声とも息ともつかない挨拶をしながら、私はそっとドアを開けた。

――― チリーン ―――

音を立てずに入ろうとした私の頭上で意図も簡単に音を立てたそれは、驚いて振り向いた私を馬鹿にしたかのように、ぱったりと静かになった。気を取り直し店の中を窺うと目に入ったのは、

木の壁

木の床

木枠の窓

木の机

木でできたカウンター

外のレンガ造りから想像もできない内装。

そしてこじんまりとしたスペースに手作りのアクセサリーが行儀よく並んでいた。

――― 誰もいないの? ―――

なぜかこそこそとしながら、並ぶアクセサリーの前に立った。猫のブローチ、蝶のネックレス、木の葉のチョーカー。素材のことはよくわからないが、その技が、素材からではない輝きを見せていた。

「うわぁー」

 私は無意識に出したため息まじりの自分の声に驚き、長めの袖で隠れた両手であわてて口を塞いだ。なおも出てこない店の主人。私は再び店の中を窺った。

――― 奥に誰かいる ―――

別に悪い事をしているわけでもないのに、身をかがめソロソロと店の奥の入り口へと近づいていった。すると奥の部屋から機械で何かを削るような音が聞こえてくる。私はいつしか、興味本位で奥へと入っていった。

部屋を覗くと、男の人がこちらに背を向け、明るい窓際にある木製の机に向かって何かしら作業をしているようだった。機械の音はそこから聞こえた、私はゆっくりと近づき、そっと彼の肩口からその手元を覗き込んだ。

「うわぁ、素敵!」

 突然の私の声に彼は飛び上がって驚き、「イタッ」と一声上げ、持っていたものを放り投げるように手から離した。

「大変!」

とんでもない事をした事に気付き、私は机の横へ回り込んだ。すると彼は、心配する私をよそに「いらっしゃいませ」と、指をくわえたまま優しく微笑んだ。私は少々拍子抜けしながらも、ただただ謝るしかなかった。

「ごめんなさい。指 ―――。私が突然大きな声なんか出すから ―――。ごめんなさい」

 何度も謝る私に「大丈夫。心配しないで」と変わらない笑みを投げかけ、「どうってことないよ。いつものことだから」と絆創膏で軽く処置をした。その直後、彼は突然「あーっ!」っと声を上げ、あわてて机の上へ目をやった。そしてその上で無造作に転がる親指大ほどの物を取り上げると、念入りに様子を窺い始めた。それは銀色に輝く女神の姿だった。冷たい金属でできているにもかかわらず、それはとても温かく見えた。優しい表情の中にある力強い目は後方の弱者を見つめ、高いところを差した指は、それら迷えるもの全てを導いてくれる。それはまるでゆるぎない道しるべ。私にはそう見えた。

「素敵―――」

『指』②                  

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無題⑨

何だか、方向性が違ってきてしまった気がする・・・。
どこへ行ってしまうのだろう?
何も手を加えずに掲載するはずだったのに・・・。
早く、終わってくれ~~~!!

ということで、軌道修正。
???と思いながら書いてたあのころを思い出しながら、
???のまま突っ切って行きたいと思います!!

それでも最初から読みたいと思われる方は
       ↓↓↓↓↓
         GO!!

**********************

 空が白みがかると俺は新鮮な空気を吸いに外へ出た。驚くほど早く入れ替わる夜と朝の空気が、これほど心を新らたにしてくれるとは新聞配達をしていたころは気づきもしなかった。そして味わったことのないこの開放感に、いつの間にかあてもなく歩き出していた。
 懐かしさと安心感の漂う古い家並みの中に、不釣合いなコンビニが一軒。俺の知る限りでは始めてお目にかかる営業時間の表示されたシャッター。
「7時から18時?ありえね・・・」
 思わずそう呟いた瞬間だった。なんとなく視線のようなものを感じ、今来た道を振り返った。こんな朝早くに誰もいるはずがなかった。ブウーっとエンジン音を立て、仕事をし終えた新聞配達員が俺の顔を怪訝そうに覗きながら通り過ぎていった。
「もどろう・・・」
 不審者と間違えられ、通報される前にこの場を離れようと、誰ひとりいない道を戻りだした。誰がいるわけでもないのに、自然と足早になってゆく。
誰もいない。誰もいないはず・・・。
 この通りを曲がって空き地を抜けたら、川崎浩子をひとり残してきたあの家にたどり着く。
 ドン!
 角を曲がった瞬間、全身に強い圧力を感じたかと思うと、頭の中で鈍い音が響き渡り、顔面がカッと熱くなった。なぜか目前に空が広がる。その後の記憶はまったくない。というより、ずっと空を見ていた。澄み切った空をずっと・・・。
「死んじゃったの?ねえ、そんな・・・ねえ・・・」
「いや、まだだ」
「やめて!おねがい!」
「まずい、誰か来る。畜生!逃げるぞ」
「え?そんな!仁が・・・」
「急げ!」
 誰だろう。俺を呼ぶのは。どこだろう。ここは?何やってんだろう。俺は・・・。

 

***************
ちょっと短いね。
まだ続くのだ・・・。

|

無題⑧

いつになったら終わるのか~~~@@

つづきです。
最初から読みたい方は無題①へGO!!

*********************

 そう言ったまま再び顔を覆い、震え泣く俺を河崎浩子は力強く抱きしめた。しかしそこに先ほどの母親の様なそんな優しさはなかった。恐らく脳裏に浮かんだ疑問を確たるものにしていたのだろう。
 「俺が・・・俺が殺したんだ・・・」
 取り乱す俺とは対照的に彼女は冷静な声で言い放った。
「違うわ。あなたじゃない」
 確かにそう言った。しかし取り乱しきっていた俺には、その言葉自体が理解できないでいた。
「しっかりしなさい!いい?あなたの父親がここに立っていた。そして、シンクには包丁がおいてあった」
 そう言いながら河崎浩子はバッグの中から飲みかけのお茶が入ったペットボトルを出し、シンクの上に倒した状態で置いた。
「こんな感じかしら?」
「たぶん・・・」
 俺は、自信なく小声でそう答えた。すると彼女はあの時父親が立っていたと思われる場所に立ち、あの時を再現しだした。
「かなり酔っていたあなたの父親に、当時5歳だったあなたが力いっぱいぶつかった。彼は後ろに倒れまいとして一歩また一歩と足を後ろに運んだ・・・。おっとっと・・・」
「あ!」
 ドンッと音を立てシンクにぶつかる彼女を見て思わず声を上げた。その瞬間、そこにあったペットボトルが彼女の背中に弾き飛ばされ、くるくると回りながら壁にぶつかり止った。
「わかる?」
その問いに眉をひそめ黙り続ける俺にあきれた顔をして、彼女は鼻からため息を漏らした。
「ここに固定でもしていない限り、この包丁は背中には刺さらないのよ!!」
俺は、一瞬にして目が覚めた。そこへ彼女の言葉が覆いかぶさる。
「さらに、前のめりに倒れたその背中に包丁が刺さっていたと言うことは?」
「と、いうことは・・・」
 混乱する頭をフル回転させて出した答え。それは、
「他に誰かがいたってことか?」
 俺を見つめていた河崎浩子の目が鋭い眼光を放った。
「そんな・・・そんなばかな・・・」
 まったく思い出せなかった。と言うより、今日一日でこんなに多くの記憶を取り戻した俺の頭ん中はパンク寸前だった。
「今日はこのくらいにしましょう」そう言って腕時計に目をやり、
「この時間じゃ、泊まる所も探せないわね。終電も行っちゃったし・・・」
 河崎浩子は部屋の押入れをおもむろに開けた。
「十年前の布団だけど、使う?」

 物音ひとつない静かな夜だった。ただひとつ彼女の寝息を除いては・・・。押入れから出した一枚の掛け布団にくるまり、河崎浩子は寝入っていた。こんな状況で寝れるなんて、女と言う生き物の恐ろしさを身近に感じた反面、ある意味うらやましくも思った。それでも彼女がそこにいるだけで随分と気がまぎれる。そう思うと、急に愛おしくも感じた。そっと寝顔を覗き込む。
「いや、ちょっと待て。何を血迷っているんだ、俺は?もともと俺の思い出さなくてもいい過去を無理やり思い出させたのはこいつじゃないか。考えてみたら一生知らずにいた方が俺にとっては幸せだったのかもしれないんだぞ」
「いや・・・。遅かれ早かれ彼女とは関係なく思い出していた可能性もある。であれば、やはり感謝するべきなのだろうか?」
「いや、今日思い出したことは、本当に俺の過去で、実際にあった事柄なんだろうか?」
「もしかしたら、こいつに誘導されて・・・?」
「何のために?」
 俺の頭はパニック状態へと引き込まれそうになった。その時、目の前にあった川崎浩子の両目がそっと開いたかと思うと急に生気を放ち、間髪いれず平手打ちが飛んできた。
「何やってんのよ!バカ!」
 そうだった。一瞬とはいえ愛おしく思いながら寝顔を覗き込み、そのままの状態で考え込んでいたのだ。
「ちがっ、誤解だ!」
 彼女はキッと俺を睨みつけると、何も言わず背を向け布団にもぐり込んでしまった。もう何を言っても聞き入れてはもらえなかった。しばらくすると彼女から安らかな寝息が聞こえ、俺は全身の力が抜けうな垂れた。
 結局、一睡もできなかった。 

 

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カルマの坂②

小説部『企画小説』の続き、完結話。 

 

第一話はこちら

*****************

 それから二日たったその日の夕方。少年はパン一個を持って街中を逃げ回っていた。ここ最近盗める品がぐっと減っていた。街の保安体制が変わり、街のところどころに兵隊が立っているのだ。ねぐらをつきとめられたらこの町には居られなくなる。少年は走った。何とか逃げ切って屋敷の前に着いたころには、もう一歩も歩けない状態だった。すでに日は落ち、夜のとばりで辺りは見えにくくなっていたが、それでも少年は念のため、疲れきった体を引きずりながら植え込みづたいに屋敷の裏へまわった。そこは荒れ放題の雑木林。少年は腰を下ろし、半ば放心状態で未だ乱れた自分の呼吸を聞きながら、やっとの思いで手に入れたパンを見つめた。そしてこの先のことを考えようとしたそのとき、自分の真後ろに人の気配を感じた。少年は咄嗟に植え込みから離れ逃げようとしたが、疲れきった体はいうことをきかない。そこから少し離れるのがやっとだった。それでも身体を低くし、息を殺してしばらく様子を窺った。しかしそれはいっこうに動く気配を見せなかった。不思議に思った少年は、わずかに届く月明かりで鉄の柵の向こう、植え込みの中を覗いてみた。

 ――― えっ? ―――

 目を疑った。そこにいたのはあの日、最後にこの屋敷に入っていった少女だった。植え込みの影に隠れるように小さくうずくまり、なにかに怯えていた。その瞳の奥は、確かに飢えていた。いつからここにいたのだろうか?少年は声をかけようとして、自分の持っているパンに気が付いた。

「お腹、すいてるんだろ?」

 そう言ってパンを差し出した。少女は生唾を飲み込み一瞬ためらったが、少年の手から奪うと、むさぼるように食べ始めた。少年は驚きはしなかった。皆そうなのだ。飢えたものは皆―――。そうなると、次に少女が欲しがるものは分かっていた。水だ。少年は「待ってろ」と言い残し、疲れきった体を引きずってその場を後にした。

 それからどのくらいの時が過ぎただろう。少年は自分のねぐらにあった残りわずかな飲み水を、子どもの頭ほどの大きさの薄汚れた木製の椀に入れ、こぼさないよう慎重に歩いて戻ってきた。少女は少年のその姿を見て、目の色を変えた。カサカサに乾ききった唇が「水、水」と無意識に呟く。少女は鉄の柵に細い身体をくい込ませ必死に手を伸ばしたが、あと少しというところで少年は足を止めた。

「―――」

少女の伸ばした指先が行き場をなくし空を彷徨った。

「少しずつだ」

少年は、左手の人差し指を立て、まるで父親が幼い娘を諭すかのような口調でそう言った。少女は伸ばした手を戻し、鉄の柵をぎゅっと握り締めた。少年はそっと近づくと、水の入った椀を差し出した。

カツン

椀が柵に当たって止る音が、静かな空間に響き渡った。少年が椀をそっと傾けると少女は震える両手で器を作り、水が注がれるのを待った。椀から流れ落ちる水をその手に受けると、震えは一層大きくなった。手から水がこぼれ出る。少女はそれすらも飲み干そうというような勢いで急いで口に近づけた。

ゴクン

のどの鳴る音が聞こえた。足りないとばかりに再び差し出された少女の手に、ゆっくりと水を注ぐと、少年は無意識に口元を緩ませ、水を飲む少女の仕草をじっと見つめていた。

決して十分とはいえないが腹を満たし潤いを得た少女の表情は、幾分落ち着きを取り戻していた。

「こんなところにいて、叱られないの?」

 少年は、言葉を選び質問してみた。少女は鉄の柵にもたれるかたちで腰を下ろし、ひざを抱えうつむいた。

「自由だから―――」

 少しおいて、聞き逃してしまいそうな小さな声でそう答えると、少女は唇をギュッと結んだ。少年はもう何も聞けなかった。

 次の日少年は、屋敷の裏の様子を、少し離れた木の影から窺っていた。そして少女が昨日と同じ場所にいるのを確認すると、そのまま立ち去り街へと急いだ。それは、無謀としか言いようのない行動。いつ捕まってもおかしくない状況下で少年は、生きるためだけではない盗みをしはじめた。

 あくる日も、そしてまたそのあくる日も、少年は走った。空腹をこらえ走った。二人分の食料は無理としても、せめて一人分。そう思って走り続けた。

 この日やっとの思いで盗ってきたのは、りんごひとつだけだった。日が沈むのを待って、少年が身を小さくしながら屋敷の裏にまわると、鉄の柵にピッタリ体を張りつけそわそわと待つ少女の姿があった。少年が傍まで寄ると少女は手を伸ばし、少年を抱きしめた。少年もまた同じようにした。そして、

「今日はこれだけだ―――」

 少年が砂まみれになった手でりんごを差し出すと、少女はその手に自分の手を添え目を潤ませた。

「もういいの―――」

「え?」

少女は少年の目を見つめ、もう一度言った。

「もういいの。私はもう何も要らない。あなたさえ無事でいてくれればそれで―――」

 少年は思わず少女の唇に自分の唇を重ねた。少女は一瞬身体を硬直させ後ずさりしようとしたが、身体は逆の行動に動き出し、止めることはできなかった。それは「愛」なのかそれとも「慰め」なのか。二人は硬く冷たい鉄の柵を挟んで、しばらくの間、抱き合っていた。少年の手から転がり落ちたりんごは少しの間転がり、大きな茶色い革靴に当たり止った。そしてその革靴は、ゆっくりとそのりんごを踏みつけた。

 「いたぞ!」

 突然の声と無数の灯りに二人は抱き合っていた手を緩め、辺りを見渡した。少年の背後には十数人の憲兵隊が、そして少女の後ろには、今なおりんごを踏みにじる醜く太ったこの屋敷の主人が、二人のメイドと共に立っていた。少年はあっけなく捕らえられ、少女は握られた右手を必死で解こうとしていた。憲兵の一人が柵の側まで寄って主人に向かって敬礼をした。

「通報ありがとうございます」

 そう言い終わると、憲兵隊は一斉に向きを変え歩き出した。少年は半分引きずられるようなかたちとなったが、それでも少女から目を離すことはなかった。少女は衝動的に少年のほうへ向かって駆け寄ろうとした。

「野良犬が!」

 主人は少年をののしった後、少女を思いっきり引き寄せその唇を汚い唇で奪った。

「やめろ!」

少年は叫び暴れた。しかし大勢の憲兵の前にどうすることもできず、地面に顔を叩きつけられ気を失った。少女は抵抗も虚しく屋敷の中に引きずり込まれていった。

気が付くと少年は牢獄の中、刑の執行場でうつ伏せに倒れていた。上半身裸で、両手を後ろ手に縄で縛られていた。そっと顔を上げると、数人の見物人が物珍しそうに場外からこちらを見ている。自分の置かれている状況を理解するべく必死に記憶を辿ろうとしたそのとき、いきなり背中に激痛が走った。

「!」

悲痛な叫びが牢獄中に響き渡る。この時代盗み人の刑は鞭打ちと決まっており、そしてそれが何の前触れもなく始まったのだ。子どもとて容赦はしない。鞭打ちの経験者は両手で耳を塞ぎ恐怖に身を震え上がらせた。

それは牢獄中が眠りについた後もなお続いていた。縛っていた縄はいつしか切れ、少年の両手は自由になっていたが、抵抗する気力はもはや残っていない。ただ少しでも避けようと、壁際に逃げるしかなかった。

「交代だ」

 時間毎に次々と代わる刑の執行係。次に鞭を打つ刑の執行係りが交代に来た。この時間にもなるとすでに見物人もおらず、少年と執行係りだけになっていた。新たに来たこの男はすぐに鞭を打つことはせず、少しの間少年の周りを歩いていた。少年は体中が腫れ内出血を起こし、ところどころ血がにじみ出ていた。あまりの痛さに身体を伸ばすことすらできない。それでも脳裏にはあの薄汚れた唇に奪われた少女の横顔が鮮明に残っている。少年は両手の拳を握り締めた。それを見て男は口を開いた。

「あの中年オヤジは性欲が盛んでな、しかも自分の体つきとは正反対の、痩せた女が好みらしい。気に入られた女は食事も与えられず、死ぬまで抱かれ続ける。まるでおもちゃだな」

 その言葉に少年は、自分の中で何かが壊れてゆくのを感じた。抱いた憎しみは人を狂人へと変貌させる。少年は壁を背にゆっくりと立ち上がった。その表情に男はたじろぎ、やみくもに少年めがけ鞭を打った。そのいくつかは確実に身体に当たっているにも関わらず、それでもこちらを睨み続ける少年に男は恐怖し、やがて鞭は威力を失った。偶然にも少年がいるすぐそばの壁には、打ち首用の剣が架かっている。察した男が背を向けた瞬間、少年は剣を抜きとった。思ったよりもそれは重く、切っ先はそのまま一直線に地面へと向かった。少年はその勢いを利用し剣を振りぬいた。切っ先は地面をかすめ、男の背を捕らえると、天を指して止まった。男は背中から血を噴出し、声もなく前のめりに倒れていった。地面が男を中心に血の色に染まってゆく。少年は全身に浴びた返り血を拭おうともせず、痙攣を起こしている男の身体を見つめながら剣を静かに下ろし、そしてその横を通り過ぎた。外部との出入りが自由刑な執行場は、見張りさえいなければ外に出ることは簡単だ。今夜は刑の執行中ということもあり、少年は簡単に外に出ることができた。

――― 向かうべきは、カルマの滞る屋敷 ―――

あれだけ鞭打たれた身体ではあったが、今の少年にその痛みを感じる余裕などなかった。一歩一歩足を踏み締めるごとに沸いてくる憎しみ。

――― ガーッ ―――

いつしか少年は剣の切っ先を地に着け音を立てて歩いていた。月のない真っ暗な夜空、降り注ぎそうなくらいの星が絶えることなく瞬いていた。

 少年は上る。カルマの坂を、一歩一歩踏みしめ、憎悪に顔を歪めながら―――。

 屋敷の前に着くと少年は門の中に剣を入れ、自分は身軽に門をよじ登り中へ入った。あいかわらず干からびた噴水が、黙って突っ立っている。

玄関の戸を蹴破ったその音は、静寂な夜に響き渡り、屋敷中の目を覚まさせた。少年はなおも切っ先で地面をこすり、奇妙な音を立てながら中に入ってゆく。少年の姿に悲鳴を上げて走り逃げるメイドたちには見向きもせず、ただ階段の上で驚き慌てふためき逃げ惑う主人を追った。

じょじょに追い詰められ、やがて逃げ場を失った主人は、少年に向かい突然命乞いをしだした。

「す、すまなかった。たっ、た、助けてくれ。欲しいものは何でもやる。金か?食い物か?お、女か?ん?」

 しかしその声が、少年の耳に届くはずはなかった。目の前にあるのは薄汚れた唇。主人の目が振り上げられた剣の切っ先を凝視していた。剣の重みに憎しみという重みを加え、少年は剣を振り下ろした。主人は声の代わりに血しぶきを上げその場に崩れ落ちる。息も絶え絶えの主人の顔を覗き込むと、その瞳はまだ「助けてくれ」と叫んでいた。少年は切っ先を主人の胸に突きつけ、力を入れようとした。

――― コトッ ―――

わずかに聞こえた背後からの物音に少年は振り向いたが、後ろを見ても誰もいない。慌てて主人に目を向け直したが、すでに息絶えていた。少年は剣を片手に部屋中を探した。あらゆるものを退かし探し続けた。そしてようやく、大きなクローゼットの隅に少女を見つけた。彼女は立てなくなるほど衰弱しきっていた。少年は剣を置き、少女を抱き上げようと身体を近づけてはじめて気がついた。少女はすでにあの時の少女ではなくなっていた。瞳は空を見つめ、訳のわからないことを呟いているその口元は唾液すら飲むこともできず、ただときどき微笑んでいた。少年はそんな少女を抱え、側にあった椅子に座らせると、はしばらくその姿を見つめ続けた。そしてそっとくちづけた。突然少女の口元から呟く声が途絶え、空を見つめていた瞳が悲しく少年を見つめた。少女は魂心の力を注いで立ち上がった。そして一瞬少年に向かって微笑みかけると両手を広げ目を閉じた。少年は慌てて剣を手に取り、雄叫びを上げて振り下ろした。少女は声もなく後に崩れ、再び椅子にストンと腰をおろした。優しく開いた目は少年を見つめ続け、口元はかすかに微笑んだまま、少女は息絶えていた。

 「腹減ったなぁ―――」

 空には今にも降り注ぎそうな満天の星。干からびた噴水の中で少年は、冷たくなった少女と並んで夜空を見つめていた。

――― 善には善を、悪には悪を ―――

少年は、そんな言葉を思い出して「フッ」と鼻で笑い、静かに目を閉じた。

それが少年の最後だった。

 やがて朝日が差し、少年の眠った顔を照らす。

肩を寄せ微笑んでいるようにも見える二人に、永遠の朝が来る。

 

                   

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カルマの坂①

小説部で作ったブログ未発表の企画小説をこのたび公開!!

企画「ポルノグラフィティさんの楽曲からイメージした小説を書こう」

****************

『カルマの坂』

「こらぁ!待てぇーっ!」

どこかの店の主人が追いかけるその先には、よく熟れた果物にかじりつきながら走る少年がいた。

「誰かそいつを捕まえてくれーっ!」

 そう叫び、一歩も走れなくなったその男は遠く逃げ去る少年を指差していた。

「またあいつか」

 街を行き交う人の中から、そんな声もチラホラ聞こえる。

「おっさーん。ありがとよーっ」

 そう言って少年は建物の陰に消えた。

「今日は大量だぁ」

 ねぐらに向かう坂道を上る途中、二つ目を食べようと抱えた果物からひとつ取り出し、口を大きく開けたそのとき、

――― ドスン ―――

 少年は、突如目の前に立ちはだかった誰かとぶつかった。その拍子に持っていた果物すべてが坂道を転げ落ちてゆく。

「あっ」

 少年が自分から離れてゆく果物を追いかけようとした瞬間、思いきり腕を握られ、吊るし上げられた。

「イタッ!」

「盗みはいけないなぁ」

 少年の腕を握っているのは、先日盗みに入った店の主人だった。

「放せ!」

 そうこうしている内に、先ほどの店屋の主人がやって来た。

「これはどうも。こいつ店の果物を盗りやがった泥棒で―――」

「知っています。先日私の店にも来ましたから」

「常習犯ですな」

「少し灸をすえておきましょう」

 その後少年は、いやというほど二人に殴られた。それでも謝ることはしなかった。

「これに懲りたら、二度と盗みなんてするなよ」

 そう言って、ぐったりとした少年を置き去りにしたまま二人は去っていった。

 二人が視界から消えると少年はムクッと起き上がり、辺りを見渡した。見物にきていた人々は知らん顔でそそくさと去ってゆく。

「皆、自分が可愛いのさ」

 そう呟いて坂の頂上を見た。

――― 通称カルマの坂。善には善、悪には悪を返す坂。それは表向きの言われ ―――

「この街ともおさらばかな」

 そう考えつつも、今の空腹を抑えることはできなかった。殴られたところはズキズキと痛むけれど、走れないほどではない。

「もうひと働きするか」

 人は生きるために生まれてくる。生きるために食べる。それは当たり前のこと。物心ついたときからひとり、失うものは何もない。盗みは生きるための知恵。親を知らない少年が生きてゆくことに、何の罪があるというのか。もしこの少年が罪を背負ったというのなら、こうした社会を作った大人たちの罪にはどのくらいの重さがあるのだろう。

 そして『カルマの法則』は、やがて実行に移される。「善には善を。悪には悪を」。

 少年は立ち上がった。

「ちっくしょう―――いてぇーっ」

 あちらこちらが痛む身体を引きずりながら、再び生きるために歩き始めた。

 あくる日も少年は、いつものように街へ出た。生きるために盗んだ戦勝品ともいえるパンをかじりながら、人波にまぎれのんびりと歩く。行き交う人や店並みを眺めながら、その笑顔を見てはわずかながら安らぎのようなものを感じ、自然と口元を緩ませる。自分にはないもの―――。それがそこにはあった。少年は視線をもとに戻し、緩んだ口元をぎゅっと引き締めると、いつものように路地裏へと入った。そこは陽の当たらない世界。

 目の前では、少年よりも幼い子ども三人が、ゴミ箱をあさり食べ物を探している。こちらの世界では日常茶飯事に見られる光景。彼らもまた、生きるためにそうしている。少なくとも盗人として生きていかなくていいだけ、彼らの方が賢いのかもしれない。けれど少年はその道を選ぼうとはしなかった。金持ちが贅沢に残したゴミを食べるくらいなら、そう―――、間違いなく飢え死にする道を選ぶのだろう。

 少年は静かに通り過ぎた。ここでは食べ物を待った者すべてが標的になる。自然と足早になった少年の耳に、かすかに怒鳴り声が聞こえた。

「汚い、向こうへ行け!」

 先ほどの三人が追い払われているのだろう。金持ちは、ゴミに群がる子どもですら払いのける。それに負けじと、子どもたちも叫ぶ。

「るせぇ!ケチケチすんな!」

 大人たちは、残飯ですら俺たちに分け与えようとせずゴミ箱に食わせる。俺たちの誰かがどこで飢えて動かなくなっていようが、ヤツらには関係のないこと。ただ冷たくなるのを待って、ゴミ箱に食わせるだけ。まるで生ゴミ扱いだ。

少年はそんなことを考えながら、迷路のような路地を通り抜け人けのない通りに出た。通称『カルマの坂』。誰も寄り付かぬこの坂道を上り詰めた先を見つめ、少年は軽くため息をついた。

 この先にある大きな屋敷。ここの主人はたくさんのメイドに囲まれ、何不自由のない暮らし。決してうらやましいと思っているわけではない。ただ、その屋敷の前を通るたび脳裏に浮かぶ言葉が、少年を憂鬱にさせるのだ。

どうしてこうも違うのか?

同じ時代に生まれ、

同じ地上に生きているというのに、

どうして―――?

 少年は再びため息をつき、屋敷の向こうにあるねぐら目指して『カルマの坂』を上りだした。なぜここが『カルマの坂』と呼ばれ、誰も寄り付かないのか。少年は聞いたことがある。

この屋敷には売られた少女がメイドとしてやってくる。主人はそのメイドを、奴隷か家畜のようにしか思っておらず、言うとおりに働く者には褒美として少量の食事を与え、働かない者には一切食べるものを与えないという。主人の命令をかたくなに拒んだ者は衰弱し、動けなくなると裏庭に捨てられ、やがて木の肥となる。そんなことが平気で行なわれていたが、「善には善を、悪には悪を」必ず返すという『カルマの法則』は、未だ動いていない。それが故にこの屋敷は『カルマの滞る屋敷』と呼ばれるようになり、やがてこの屋敷で動き出すであろう『カルマの法則』に恐れを抱き、人はだれも寄り付かなくなったのだ。そして、そこへ続く坂道を上ってやって来る売られてきた少女たちも、生きるためこの屋敷の中で罪を重ねる。お腹をすかせた少女たちはやがて、人ではなくなってゆくのである。

 この坂道を上る者は皆変わってゆく。やがてカルマの法則に従い皆―――。

 これがこの坂道の呼び名の由来。「馬鹿げた噂だ」少年はそう思っていた。しかしその考えは、じき覆されることとなる。

 その日少年は戦勝品を抱え、追いかけてくる大人を振り切り街を風のように駆け抜けた。そしてその勢いで『カルマの坂』を上りきると、見慣れない光景に足を止めた。屋敷の前に並ぶ行列。初めて見るものだったが、少年にはこれが何の行列なのかひと目で分かった。どこか遠くから売られてきた少女たちだった。門をくぐる少女一人ひとりを、手馴れた手つきで二人のメイドがチェックしてゆく。

 その様子を、少年はじっと静かに見つめていた。そして最後に門をくぐろうとした少女のその瞳からこぼれ落ちる涙を見て、なぜか少年の心が揺れた。それは不思議な感覚だった。

 無意識のうちに少年が門の側まで駆け寄ると、鉄格子のような門をメイドたちが閉めている途中だった。

「しっしっ。あちらへお行き」

「人を呼ぶわよ」

 冷たく少年に向けられたその声に、先を歩く少女が振り向きこちらを見た。一瞬だけ合った少女の瞳の奥に、少年は自分と同じものを感じた。

――― どうして? ―――

 その言葉が心の中で繰り返される。噂が本当なら、この少女はここで人ではなく家畜として扱われることになる。

「他に道はないのか?」

 少年は屋敷の中に消えてゆく少女の後姿に投げかけていた。

 やがて門は、錠の落ちる音と共に完全に閉ざされ、そして少年を残し誰もいなくなった。あたりは薄暗く、もうすぐ日が暮れる。少年は気になる思いを断ち切り、ねぐらへと向かった。

 夜が更けても、少年は眠れなかった。

――― 他に道はないのか? ―――

 少女の涙が脳裏に焼きついて、消えることはなかった。

 次の朝、いつもなら見向きもせず全速力で走り抜ける屋敷の前を、少年はゆっくり通りすぎようとしていた。中の様子は、鉄格子状の囲いと植え込みの木々のおかげでほとんど見えない。少年は唯一中が見える門の前で立ち止まり、中を窺った。ここから十数メートル離れている屋敷の中の様子は何も分からないが、庭全体はしっかりと見える。雑草こそは生えてはいないけれど、地面がむき出したそこは、とてもみすぼらしく見えた。少し視線を左に移すと、そこには干からびたままの噴水がまるで生気を失った番人のように佇んでいた。少年は人けのない庭に期待を裏切られたような気がした。と同時に自分のとった行動を馬鹿らしく思い、我に返ると足早に立ち去った。

 今回のメイドたちは、全員主人に気に入られたのだろうか?それともやっぱりただの噂だったのだろうか?

三日が過ぎても何の代わり映えもしない屋敷の様子に、少年は興味を示さなくなっていた。金持ちで傲慢な主人のいる屋敷。気が付けば、

――― どうして? ―――

と思うことすら辞めていた。

                つづく

続きはこちらから

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Love,too Death,too

随分前に書いた企画小説。
直接 部のブログにUP してたからこっちにはUPしてなかったみたい。

Porno Graffitti さんの楽曲より

『Love,too Death,too』
 

 彼女はただ踊り続けていた。
倉庫の片隅でシューズが赤く染まってもなお踊り続けていた。
「あっ」
 疲れと痛みでうまくターンが切れなくなりもつれた足が、彼女を惨めにも床に這いつくばらせる。僕は思わず両手を伸ばし駆けつけようとしたその足を、必死で止めた。
 今彼女が必要としているのが僕ではないということを僕自身十分すぎるほど知っていた。
 ステージの上で彼女は罵声を浴びせられ、裏で泣いるのを何度となく見てきた。それでも這い上がろうとしているのはスポットライトを浴び踊るのが彼女の夢であり、今はもういない愛した人のとの約束だから。
だからたとえ何度オーディションに落ちようよも、あとから入ってきた後輩に先を越されようとも彼女は決して諦めたりはしない。
 僕はこれまでいろんな人たちにライトをあて続けてきた。だから分かる。彼女は必ず舞台の真ん中に立って数え切れないほどのライトと拍手と声援を浴び、誰よりもうまく踊ることだろう。
 そうしたら僕はこのライトで彼女を照らそう。誰にも言えないこの思いを胸に秘め、ただただ懸命に彼女を照らし続けよう。


 そして彼女は再び立って踊り始めた。

                     END

**************************

短っ!!

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無題⑦

久しぶりに続きよ~ん。 

***********************

 そう口にした瞬間、そこにいるはずのない男が俺を睨み大声を上げた。
「何を見ている?あぁ?仁。俺が酒を飲んで何が悪い!何が悪いってんだ!!」
 俺は迫り来る恐怖に耳を塞ぎしゃがみ込んだ。
「ちょっ、ちょっと、大丈夫?ねえ、仁」
 どのくらいの間だろうか。河崎浩子は目を閉じ小さくなったまま動かない俺の名を呼び肩を揺らし続けていた。
「あ。だ、大丈夫。大丈夫だから。ごめん」
 ふと我に返った俺には一体何が起こったのか理解できていなかった。
「どうしたの?急に」
「分からない。何かを見た気がするんだけど」
 そう言いながらあたりを見渡し、めまいを感じた。
「ねえ?大丈夫?仁?仁!!」
 心配そうに叫ぶ彼女の顔がかすんでいくのが分かった。代わりにさっきと同じ男の声が頭の中をガンガンと響き渡った。
「酒だ!おい、仁。酒はないのか?」
「俺が酒を飲んで何が悪い?」
「何だその目は」
「酒買って来い!」
「ごめんなさいお父さん」
「僕いい子でいるから」
「ぶたないで」
「いたいよ」
「いい子でいるから」
「ごめんなさい」
「仁・・・お前・・・よくも・・・」
「ああ・・・助けてくれ・・・仁」
「と、父さん?」
「ぼ、僕?僕がやったの?」
「僕が、お父さん・・・死んじゃったの?」
「僕が?僕が?僕・・・僕じゃない。僕じゃない・・・」

 気がつくと俺は仰向けに倒れ呆然と天井を見つめていた。
「ああ。仁。よかった」
 俺のすぐ横で河崎浩子は今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見ていた。その手は俺の右手を握り締めて。
「ごめん。もう大丈夫だから」そう言って俺は上体を起こした。
「大丈夫じゃないわ。まだ顔色も悪いし。一体どうしたの?」
 その言葉に先ほどの声を思い出し、気分が悪くなった。思い出す一言一言に、忘れ去られていた記憶が映像となって呼び起こされる。
「ああ。俺が殺したんだ・・・」
 気が付けば呟いていた。
「え?何?」
 俺は断片的に思い出したことを話し出していた。ポツリポツリと小さな声で。そうすることで冷静さを保たせようとしていたのだ。
「俺は大酒のみの親父に虐待を受けていた。何か気に入らないことがあると全部俺のせいにして叩くんだ。俺は、俺がいい子じゃないから父親がこうなってしまった。こうなったのは俺のせいだと思い、ただただ耐えるしかなかったんだ。けど・・・けど・・・」
 俺は涙を流し話し続けていた。まるで独り言のように。それを河崎浩子はただ黙って聞いていた。
「あの日もいつのものように父親は酒を飲み酔っていた。だた、俺はなぜかいつもと違っていた。もう痛いのはイヤだ。そう思っていた。だからあの時、父親が酔って俺を叩こうとした時、俺は突き飛ばしたんだ。力いっぱい父親を付き飛ばしたんだ。そしたら、そしたら・・ああ」
 俺は両手で顔を隠し泣いた。
「そしたら・・・そしたら・・・」
 その先が言えなかった。幼子のように泣く俺を、河崎浩子は優しく包み込んだ。俺は母親にすがるようにしばらく泣き続けた。
 そして気が落ち着くと、俺に突き飛ばされた父親がどうなったか再び話した。
「ふらふらよろけながら、そのまま後ろに・・・、あのシンクにぶつかったんだ。そうしたら、突然父親は顔色を変え、目尻を吊り上げ、俺を睨みつけたかと思うと、そのまま前のめりに倒れた。その背中に包丁を突き立てて・・・」

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